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苦しみを忘れずは人は生きざらん暁漉きの薄氷の紙(注1) |
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『飛花抄』昭和四十七年刊 |
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この歌は「霜漉き歌―または暁闇のかなしみ―」という題で、「現代短歌'72」に発表した三十首の中にある。この頃も亡き母の故郷に執して綾部の堤家と塩見匤さんの御世話になり、黒谷の和紙を漉いている小集落を訪ねた時の感動をうたったものだ。黒谷の和紙はきわめて上質で、桂離宮の襖や障子の料いなったという。束ねられた紙からは何ともいえぬよい香りが漂い、私はそれを「雪の匂い」と呼んでいた。一本の細い川に沿った何軒かの家の小作業場を見せてもらい、少し川上に遡った。その川の墓原を、人は過去地(かこち)と呼んでいた。とても悲しい呼び名である。
紙漉きの作業のきびしさを物語るように、人々の手は水腫れしている。原料の楮を刈るところから、楮蒸しして皮を剥いたり、水晒したり、原料の漉き汁を作るまでがたいへんである。そして漉き紙を板張りして乾かすのはお天気との勝負。そしてやっと匂いのよい紙が生れる。人々の無口はくらしの重厚をそのままみせているようだ。この地もまた平家落人伝説に彩られているが、それはここに紙漉く人々の矜恃のあらわれである。
楮蒸しの暁霜に焚く火なり独神とはもしはわれなる(注2)
雨か竹か一夜鳴りいしさびしさは山より春の修羅くだるなり
これが母の故郷の風景の一つであることがいたく身に沁みたのである。黒谷には三回行っているが手帳にその日の記録が一つしか残っていない。それは昭和四十六年四月二十六日のことで、前日大阪のキャッスルホテルで「男歌女歌」のシムポジウムがあり、私は女歌のパネラーで、男歌は佐佐木幸綱さんだった。十六日は早朝京都で西村尚さんと落合い、朝代に帰る車に便乗して黒谷に一緒に行った。午後二時の綾部短歌会の講師に間に合い、同日帰京、深夜十二時帰宅とある。
この歌は同年秋十一月に作っている。
(注1)暁(あかつき)、漉(ず)き、薄氷(うすらひ)
(注2)楮蒸(かごむ)し、暁霜(あかつきしも)、独神(ひとりがみ)
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