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「心なき身」
  
 いったい「心なき身」とはどういう人物をいうのであろう。辞書では「心なし」で引いてみると、「思慮分別がないこと」というのが一般的で、用例としてはたいへん有名な『源氏物語』「若紫」の部分が引用されている。雀の子を籠を伏せた中にとじこめて置いたものを、若紫の君の遊び相手として召し使われて犬君(いぬき)という幼い侍女が、あやまって逃がしてしまったことを受けて、大人の侍女が「例の心なしのかかるわざをしてさいなまるるこそ、いと心づきなけれ」という。ここでの意味はまさに「思慮分別がない者」に相当する。
 「心なし」という語は『万葉集』以来多く使われているにもかかわらず、「心なき草木」というように、人間以外のものにかぶせられることが多い。もっとも『徒然草』では「心なしと見ゆる者も、よき一言(ひとこと)いふものなり」と、荒夷(あらえびす)〔荒々しい武辺者〕の親子の情を例として、人間のしぜんの情愛を「心あり」としている。歌人や文化人の間では、より文化的・教養の深浅が「心」の「あり」「なし」に用いられ、謙遜して自ら「心なき身」ということもあったようだ。
 心なき身は草葉にもあらなくに秋くる風に疑はるらん
               『後撰集』  伊勢
 心なきわが身なれども津の国の難波の春に堪へずもあるかな
               『千載集』  藤原 季通
 心なきわが衣手に置く露や草の袂のたぐひなるらむ
              『続千載集』  前大僧正道玄
 などの使用がみられる。いずれも「詩文や情趣への理解が深くないわが身」とへりくだった物言いになっている。しかし伊勢の歌は「心なき身」とはいいながら、「草葉」と同じ「心なき」ものではないと弁明し、季通の歌は「心なきわが身」といえど難波の春の景に会っては堪え切れぬ風流の心を催す、と勝地の春景をたたえる材として、「心なきわが身」を用いている。西行の初句に近いのは道玄の「心なきわが衣手」だが、西行の「心なき身」は、西行自身を「心なき」もの、そのものと規定している。さらに一般的には出家の身と結びつけて「世俗への思いを断ち切った身」とすることが多い。万葉集以来、僧の歌はきわめて多く、「心なき」人はきわめて少ない。まして西行が「心なき身」などであるか否かは言うまでもないことだ。

※ ( )内は前の語句のルビ